豆腐メンタルのミカタ

ヤワにゆるっと生き抜くTips

小学生の頃

とても大人しく口数も少ない上社交的な性格でもなかったため、いつも決まった数人の友人と絵を描くことを遊びとしていたインドアな小学生だった。
通信簿の先生からのコメントにも「お友達が少ない」と書かれてしまうくらいに。

 

それでもどうしても、ひとに心を開くことが容易ではない子どもだった私は少数でも気の置けない友人たちのことは誰よりも信頼し、誰よりも大切にしていた。

 

そんな彼女たちにも家の事情を話すことは今の今までできていないが。

 

小学校低学年の頃に海外へ単身赴任した父が、5年生の秋に帰ってきた。
ああ、また自分に辛く当たる人が増えるんだな、と父の帰国を恐れていたが、帰って来た父はしばらくの間恐ろしいほどに上機嫌。
母は1度だけ父の赴任先まで行ったことがあったが、やはりしばらくぶりの父との再会を喜んでいた。


機嫌がいいからといって私のことをかまってくれるわけではなかったものの、以前より少し家の雰囲気が和やかになったのは小学生ながら嬉しかった。

 

しかしこの頃からひどく悩まされ始めたことがある。

 

両親の夜の営み。


当時の住まいは部屋数も多くなく、私も両親も同じ部屋で寝ていたのですが、何の仕切りもなく、行為に明け暮れる両親のすぐ隣の布団で寝たフリをするのは思春期を目前とした女としては受け入れ難く辛い時間でした。


1分が1時間に感じるほど、長い長い夜。

耐え切れずに寝ぼけたフリをして
「お母さん…」
と呼んでみるも
「え、やだ〜、この子起きてるのかしら?うふふ♪」と母
それに対して「いいよ、続けよ」とまた母に覆い被さる父
どうしてこの状況で能天気に笑えるのか、一切の気遣いがないのか、もう気が狂いそうだった。本当に。

 

生々しい音や声、息のリズムが気持ち悪くて涙がとめどなく溢れては布団で必死に拭う夜を何度も何度も過ごした。

 

うーん。

今も記事を書いていて本当に胸糞が悪い。
長いことなるべく思い出さないようにしようと、どこかにしまっておこうとしていただけあっていざ回顧してみると堪らなく辛い。

 

そしてある日とうとう我慢の限界に達し
「やめて!」と泣きながら訴えると
「うるせえ!早く寝ろ!」と父に怒鳴られ結局口論になり、覚悟はしていたもののやはり外に出される。

 

深夜、1人当てもなく近所を徘徊。
児童公園の時計は2時をまわった頃だった。
いっそこのまま誰かに連れ去られて仕舞えばいいのに、殺されちゃえばいいのにと、声を潜めてまた泣いた。

 

そのまま気づかぬうちに公園のベンチで眠りにつき気がつけば朝。

ダメ元だが学校もあるので家に戻ると鍵が開いていた。


何事もなかったかのようにトーストを1枚食べ学校へ向かった。

 

中学に入学する頃まで悩みに悩み抜いたが解決策もなく、誰に相談できるわけでもなく、耐え続ける他なかった。