豆腐メンタルのミカタ

ヤワにゆるっと生き抜くTips

希望の光

正直、大学から紹介状をもらって行った精神科の先生は淡々としていて冷たかった…。(精神科や心療内科の先生は仏のように優しいものだと勝手に想像?勘違い?していた自分も良くないのですが。)

他のクリニックを当たることも考えたがまた初診料等取られてしまうのも癪なので辞めました。

 

自分と向き合うと決めてから知識が全くなかった"大人のADHD"についてインターネットや書籍で片っ端から調べ、同じように苦しみながら頑張って生きている人のブログ等を読んで励みにしていました。今もしています。

 

精神科の先生は冷淡ながらも話はちゃんと聞いて真剣に私と向き合ってくれている(ような気が徐々にしてきた)ので定期的に通いながらコンサータの服用を継続。

 

大学の相談室にも足繁く通い、親身に相談にのってもらいました。専属のカウンセラーさんが私の母くらいの世代だったこともあり、もしかしたら心のどこかで迷惑だと思われてたたかもしれませんが、私は彼女のことを自分の母であるかのように慕っていました。

実母に甘えられなかった分、心を開けなかった分、たくさん甘えてしまったなあ。

それでもいつでも優しく私のことを受け入れてくれた彼女には卒業した今でも感謝の気持ちでいっぱいです。

 

もとより極度のあがり症で人と話すことが怖く大の苦手だったので、カウンセラーさんの勧めで対人関係トレーニングにも参加したりしました。

そこには私と同じように対人恐怖症の人や吃音で悩んでいる方々が数十人いて、率直な感想としてはとても安心した、というか孤独感が幾分和らいだ。

 

中高生だった頃から吃音やあがり症、緊張しやすい性格が祟って人から避けられたり「変なやつだ」と陰で言われているのを知っていたので、だからこそなるべく明るく振舞おうと努力していたものの、心の中では自分はコンプレックスの塊だと蔑んでばかりいたため、お互いに理解し手を取り頑張ろうと励まし合える仲間に出会えたあの日の経験はまるで希望の光。

 

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中には私の幼少期と同じような経験をされている方もいて、悲しいことではあるけれどお互いそれを乗り越えて生きてきた"きょうだい"であるような感覚にさえなりました。

 

これがコンサータ服用開始から3週間目くらいかな。

 

一歩踏み出したことで何か変わるような期待でいっぱいな頃の話でした。 

 

 

 

(追: ですます調に変えてみたら少し書きやすくなった…ような気がしなくもない!)

 

余談ですが

中途半端なタイミングですが、改めまして、私真奈美と申します。

 

読者になってくださった方、スターをくださる方、そしてこのブログに訪問してくださる方にこの場を借りてお礼申し上げます。

いつもありがとうございます!

 

過去を振り返り書き起こしている途中ですが初めてのブログということもあってか上手く文章にできず非常に悩ましいところです。

 

思っていたよりもブログって難しくて奥が深い…!

これまでを思い返すと「辛いことばかりだったな」と気持ちがどんよりしてしまうこともありますが、文字に起こすことでやはり少しずつ気持ちの整理もできているような気がしてきました。

 

苦悩と葛藤、それだけでなくそこからの打開策を試行錯誤しながらここまできたのだな、と感慨深くなることもあったりして…

辛いことがあっても頑張っていこうという気持ちにもなります。

 

拙い文章ではありますが、これからもLive or Dieをよろしくお願いいたします。

ADHDと鬱

意を決して入った大学の相談室。

 

白を基調とした明るい部屋。

優しげなオルゴール音楽も流れていて荒んだ心を暖かく迎えてくれる環境、といった第一印象だった。

 

優しそうな専属のカウンセラーを紹介され、悩んでいることから家族構成等まで色々と質問された。

 

秘密厳守のポリシーがあるとはいえどもやはりそう簡単に人を信じて自分を曝け出すこともできず、初めてのカウンセリングでは家族のことに関しては当たり障りのないことしか言えなかった。

それでもカウンセラーは何かを察したのか、「それは大変でしたね」と悲しそうな表情で私を見つめた。果たして本当に察していたのか否かは謎だが。

 

一通り話し終えると、日を改めて"テスト"をしたいと言われまた後日ここを訪れる予約をした。

 

約束の日にまた相談室を訪れると2冊の冊子がテーブルの上に置かれていた。カウンセラーの言う"テスト"であった。

記憶は曖昧だが小一時間程度であっただろうか、テストに回答を記してその日は帰宅した。

 

そしてそのまた数日後、結果が出たとのことでまた相談室を訪れるとカウンセラーにいつもの個別相談室に案内された。

 

テストの結果、発達障害と鬱の疑いがあるとのことだった。

そのままカウンセラーの付き添いで医務室へ行き、先生に軽く問診を受け某病院の精神科への紹介状を書いてもらい、その場で予約をとりその足で病院を訪ねることに。

 

精神科でも問診を受け、そこでも改めてテスト等検査があるとのことだったが時間がかかるらしく数日後に予約を入れた。

本来であれば診断後の処方であるが、問診して発達障害である疑いが濃厚であるのと私が辛そうだ、とのことでその日に取り急ぎ次回診察時までの分のお薬を出してもらうことになった。

 

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(↑初めて処方された時の。たまたま写真を撮っておいたものがここで出でくるとは。)

 

その後検査の結果やはりADHD、そして二次障害として鬱を併発していることが知らされた。

 

最初にその疑いがあると言われた時はまさか自分が、と不安に思っていたがらずっと長いこと悩んでいたこともあってか、結果そうだったと告げられて少しほっとした部分も正直なところあった。

 

この頃からほんの少し、少しずつ、自分を受け入れられるようになっていった。

はじめの一歩

お客様対応では段々と簡単なことですら答えられなくなって、言葉に詰まり、しどろもどろになり、お客様にも上司にもこっぴどく叱られる。

これまで私を励まし優しく見守っていてくれた人たちも愛想を尽かして苦笑い。

とうとう同じ部署のほとんど全員から冷たい目線を向けられるようになってしまった。

 

困らせようだなんて1ミリも思っていない。

毎回新しいことの勉強、復習を重ねて読み込んだノートはもうボロボロ。

出勤の度に「最低でも足手まといにはならないように、自分の仕事はこなそう」と意気込むのだが何かしらトラブルを起こしてしまうのだ。

 

言われたことすらできない。

マルチタスクがどうしてもこなせず、一気に2つ3つぐらいのことを頼まれても1つの仕事に集中してしまうとその他頼まれていた仕事の存在すら忘れてしまう。

一番問題なのはこの集中力の欠如が祟ってお客様対応をしている最中に他の人の声が耳に入ってきてしまうと自分の仕事や今何を言っていたかがわからなくなりパニックに陥ってしまうことだった。

 

今でも、よくあの時解雇されなかったなとしみじみ思う。

 

とにかく自分が憎くて周りが怖くて酷く辛かった。

 

出勤するまでの道のりでは強い吐き気に襲われ、目眩を起こし、終いには職場に近づくにつれて手が震えるようになり、「このままでは自分が崩壊していってしまう」と危機感を覚えた私は誰かに助けを求めずにはいられなくなっていたのだ。

 

大学の相談室の前で入室を躊躇う。

これまで小中高校にも相談室なるものは存在していたものの、悩みが悩みであっただけに相談員に心を開いて全て打ち明けるわけにもいかず一度も足を踏み入れたことはなかった。

 

しかしもうそんなことは言っていられない。

家族に見捨てられ、社会でも自分は邪魔者のレッテルをはられてしまったのだ。

 

縋りたい、その一心で相談室を頼ってみることを決心した。

再びの孤独と焦燥感

夜な夜な出かけ、呑んだくれて遊びまわる。

 

満たされていた日々もそう長くは続かなかった。

 

こんな自分に嫌気がさしたのだ。

 真面目に生きたい。

これ以上堕ちていきたくない。

 

然し乍ら、今の私にとって寂しさと闘うのは容易ではない。

特に夜は一人でいると気が狂いそうになるが、誰かに助けを求めたくても全てをさらけ出せる人もそういない。

 

私のように地方出身者の友人は寂しくなれば実家の家族に連絡したり時折家族を一人暮らしの部屋に招待しているようだが、私の場合はそうもいかない。

 

夜勤のバイトを増やして忙しくなれば少しは気が紛れるかもしれないと思い、がむしゃらに働いた。

 

以前の勤務していた夜勤バイトは辞めてしまったために新たにバイト先を探すところから始まった。

 

多くの人がおそらく一度は聞いたことのあるであろう会社のカスタマーサポートセンターで働くことになった。

 

覚えなければならないことが非常に多く、のっけから前途多難。

マニュアルもあるが書いていないことにも対応しなければならないので日々新しいことを学んでいった。

 

毎日のように働いていればきっと仕事にも慣れるだろうと信じて学び働き続けること3ヶ月。

 

「いい加減にしろ。」

ついに言われてしまった。

 

気付いていた。焦っていた。自分に苛立っていた。

初歩的なことも覚えられずにミスを連発していた自分は注意されることが多く、その都度自分を奮い立たせ同じミスは繰り返さないよう、責任感を持って働こうと気を張っていたがそれでもまた同じミスをしてしまう。

 

マニュアルは読み込み、わからないことはメモをとって、時間があれば復習をする。現場では積極的に実践に移していたが、どうもミスを繰り返してしまい結局周りの人の仕事を増やしてしまっていたのだ。

 

同じ時期に入社したアルバイトの人たちはどんどん新しいことを吸収してすっかり仕事をこなせるようになっていたので失態を繰り返す私は当然目立つ。

 

また失態をしてしまったら、怒られてしまったら、迷惑をかけてしまったら…

いつも焦ってる感じがするからもっと落ち着いて、と言われても焦らずにはいられない。

そうならないように気を張るもそれが極度の焦りと緊張を生み、頭が真っ白になり、そしてまたミスをする。

 

この頃になるとお客様の電話を取っても仕事に対する脅迫観念に苛まれ元々吃音気味であることが気になっていたがそれもだんだんと顕著になり、うまく喋れなくなっていた。

 

だんだんと仲のよかった同期にも見下されたり嘲笑されるようになってすっかり落ち込んでしまい職場へ行くことが怖くなってしまった。

 

 

歪み

もう、誰でも良かった。

 

その日かぎりでも、一瞬でも

本物だろうが偽物だろうが

愛してると言われたかった。

 

誰かに必要とされたかった。

欲を言えば執着されたかった。

 

高校時代から付き合ったいた彼との別れを機に、私は歪み始めてしまった。

 

落ち込んでいた私を見かねて友人がクラブに誘ってくれたことが事の始まりであった。

 

もともと派手なタイプの人間ではなかったゆえはじめのうちこそ圧倒されていたが、酒が進むにつれて我を忘れてガラにもなく騒ぐ。

 

完全に酒の力を借りてはいたけれど大勢の人と朝までワーワー騒ぐのが楽しくて寂しさも紛らわすことができて、すっかりクラブ通いをするようになってしまった。

 

言い寄ってくる人がいれば都合よく甘え、2人で抜け出して朝まで過ごすことも少なくなかった。

 

人の腕の中って本当に心地いい。

あたたかくて、落ち着く。

 

誰と過ごしていても「じゃあまたね」と言う"朝の挨拶"が怖くて

誰が叶えてくれるわけでもないのに時間を止めて、と何度も心の中で念じては虚しく朝を迎えた。

 

虚無感

この頃の私の心情を表すのに丁度いい言葉。

 

本当は、本気で愛し合える人に出会いたいと思っているのに、やめられない。

 

真剣な交際を申し込んでくれる人もいたが、また終わってしまうのが、悲しい別れを迎えるリスクを背負うことがとてつもなく怖くて抜け出せない。

 

その日のことだけ考えて"手頃な愛"を求めては溺れていった。

 

そんな自分にどうしようもない嫌気がさすのにもそう時間がかからないということを、この時の私は考えてすらいなかった。

 

コントラバスのキーホルダー

「海外の支店に異動になった」

 

頭が真っ白になった。

彼が異国の地へ行ってしまう。

 

かねてより海外勤務に憧れていた彼の栄転

喜んであげるべきなのだが、そうもいかない。

しかし受け入れなければならないのだ。

 

時間をかけて話し合った結果、

お別れするという決断に至った。

 

一度は遠距離恋愛に踏み切ることも考えたけど

地球の反対側に行ってしまう彼とは年に一度会えるか会えないか、そしていつ日本に帰って来れるかわからないという不安と

頻繁に連絡して彼の仕事の邪魔になりたくなかったから

それに、夢に向かって一生懸命仕事を頑張ってほしかった。

 

「数年後日本へ戻ってきて、

俺のことまだ好きでいてくれたらもう一度一緒になろう」

 

出国までの3ヶ月間はできるだけ多くの時間を一緒に過ごすことにした。

もちろん、楽しい思い出が増えれば増えるほど辛くなることは重々承知していたけど、最後の一瞬まで愛しい人のそばにいたかった。

 

旅行へ行ったり、美味しいものを食べに行ったり、お家でゆっくり過ごしたり

 

搭乗時間ぎりぎりまで、彼は出国ゲートの前で泣き噦る私を抱きしめてくれた。

一緒に涙を流してくれた。

 

3年間、ありがとう。

 

お守り、といってコントラバスのキーホルダーを私に渡し、彼は夢とともに旅立っていった。

 

このキーホルダーは今でもしまってあって、時々眺めてはあの頃を思い出す。

時間が経つと段々と記憶も薄れてくるものだ。

こうやって書き起こしてみるとあれもこれも思い出したりして面白い。

いや、やっぱりいまだになんとなく切ない。

 

大好きな彼の人生の門出。おめでたい。

でも、失ったものは大きかった。

 

また私は心の支えを失ってしまった。