手に入れた自由、再び襲いかかる苦悩
気がつけば受験シーズン。
行きたい大学の候補はいくつかあったが、
「名の知れない大学には行かせない」
と志望校への進学を反対されてしまった。
今になってもどんな進路を選んでもその人の頑張り次第なのでは?と思うところだが、そんなことは言えなかった。
口ごたえすれば殺されてしまうかもしれない、という極度の強迫観念から逃げることはまだできずにいたのだ。
受験期はこれまでにないほど勉強をした結果、無事関東の某国立大学の志望していた学部への合格を果たし、祖父母の協力のもと入学金等も支払えた。
自宅通学ができる距離ではなかったため、
高校卒業と同時に苦しい思い出が詰まった実家という名の地獄を飛び出した。
一人暮らしをすることに関しては思いの外何も言われず
むしろ、最後まではやく出て行けと言わんばかりの態度を取られたので気が楽であった。
両親としては体裁を整えることができればそれで十分なのであろう。
18歳にして両親からの虐待や罵倒から解き放たれて、ようやく手に入れた自由。
徐々に友人と呼べる存在も増えていき、自然と笑えるようになり、心の傷も少しずつ癒えてきた。
朝はやくから夕方まで授業があったためバイトは主に夜勤で、時間のある時には昼間も働き、とにかく動き回っていた。
休みの日は友人と遊びに行ったり、既に社会人になっていた彼が会いに来てくれたり。
学業にバイトに時々遊びと
目まぐるしいほど忙しい日々。
それでも毎日が楽しかった。
初めての夏休み
大学生活のおかげで心にゆとりを取り戻したこともあってか、ずっと恐れて恨んでいた両親ともひょっとしたら距離を縮めることができるかも、頑張ればお互い心を開けるのではないか、と思い恐る恐る帰省をすることを決意。
実家に帰るのに恐る恐る…ってそんな人滅多にいないのでは、と思うが。
ドキドキしながら玄関を開けてみる。
居間に行くと母の姿が。
久しぶりに娘の姿を見ても無反応な母に、ただいま
!と笑顔で声をかけてみても返事は「ああ、来たんだ」の一言。
そしてすぐに目をそらされた。
甘かった。
あーあ、
帰ってくるんじゃなかった。
もう空元気を出すのも疲れた。
やっぱりな、という諦めと、
淡い期待が消えた悲しみと。
持って行ききれなかった荷物だけ持ってこの忌々しい場所を後にしようと自分の部屋へ向かった。
ない
全て消えていた。
勉強机も、布団も、本棚さえも
私の部屋にあったありとあらゆるものが全て
処分されていた。
中学生の時に大きな家に引っ越して、与えられた私の部屋。
日当たりの悪い物置のような部屋だったが、それでも私にとってはこの家の中で唯一落ち着ける現実逃避のためのシェルター的役割を果たしていたゆえ、たくさんの思い出が詰まっていた。
趣味で描いていた絵も、卒業アルバムの中も、お気に入りのぬいぐるみも
なにも、ない。
あまりのショックに胸が苦しくて、悲しくて、
そのまま家を飛び出した。
その日は少し離れた祖父母の家に寄り、大学生活の近況報告をした。
祖父母はいつもあたたかく迎えてくれる。
おばあちゃんの煮物、本当に美味しい。
小さな頃は1人で祖父母を訪ねることは禁止されていたが、中高生になって時折顔を出すようになった。
祖父母は両親と3人仲良く暮らしていると信じていたため、どうしても家庭内不和については話すことができなかった。
きっと、本当のことを知ったらひどく悲しんでしまうだろう。
今、私にできる祖父母への恩返しは元気な姿を見せることだけなのだから。
私の夏休みの帰省は1日にして終わり、その後再び帰ることはなかった。
初めてのキス
両親に対する罪悪感はあった。
見つかれば、また怒られる。
暴力をふるわれる。
ましてや今回は相手が3つも年上だ。
彼が被害を被る可能性もなきにしもあらず。
それでも初めて生きた心地がしたのだ、失いたくなんかない。
彼も状況を理解してくれているので頻繁ではないが逢瀬を重ねた。
家庭の暖かさを知らずに育ち、
学校でも素を出せずに心を閉ざしていた私は気を遣ってくれたのか、デートの度にいろんなところに連れていってくれた。
動物園や遊園地、おしゃれなカフェ
一緒にいるだけで自然と笑顔になる。
小学生の頃に"鉄仮面"とあだ名のつけられた私としてはなんとなく慣れない感覚であった。
普段は両親に怪しまれないように19時には家に帰るようにしていたが、年末になり母が1週間里帰りをすることになり、父に関しても毎日帰宅が深夜0時を回らなかったことがなかったため、クリスマスは少し遅くまで彼といられるということで少しだけ遠出をした。
19時を過ぎると「はやく帰らなきゃ」という焦りと「今日はまだあと少し一緒にいられるんだ」という喜びが複雑に混ざり合う。
夕闇を包むイルミネーションの光がまぶしくて更に鼓動が高鳴った。
とにかく幸せで、風は冷たくても繋いだ手は暖かい。
脳内では前日のコンサートで彼が演奏をしていたクリスマスソングが流れる。
とても心地よい。
時間とは平等ながらも時としてその流れの速さは残酷である。
あっという間に帰路に着く時間。
遅くなってしまったから、と自宅付近まで送ってもらうことになった。
最寄駅から自宅へ向かう途中にある大きな公園の中の並木道を歩く。
昼間はそこそこに人の往来があるこの道も、真冬の夜では全くといっていい程ひとけがなくしんとしている。
楽しかった今日も終わってしまう、
そう思うと自然と無言になってしまっていた。
並木道の中程で道を逸れる彼に私も続く。
急に立ち止まり、こちらを見つめる。
ゆっくりと顔を近づけ、触れるか触れないか、くらいの距離で一瞬止まった。
「嫌じゃない…?」
何が起きようとしているのかもわかるし嫌なわけがない。
ただ、心臓が張り裂けそうなほど緊張していた。
ただ無言で頷くと、そっと唇と唇が重なった。
いい匂いがした。
香水の匂いの類ではなく
形容し難い、優しい香り。
なんだか、もう全てがどうでもよくなった。
両親が不倫していても、邪険にされても、暴力をふるわれても、必要とされなくても愛されなくても。
ただ、彼のことだけは絶対失いたくない。
その一心だった。
新しい出会い
以降、もう一切の希望を失った。
まわりの"友人"たちが高校生活をエンジョイする中
1人取り残されたようだった。
もっとも、"友人"と強調したのも
私には友人と呼べる友人がいなかったからだ。
その場を繕う努力はしていたものの、
友人としての深い関係は持ちたくなかった。
たとえ彼/彼女らが私のことを友人だと思ってくれていたとしても
私はそうは思えなかった。
人は簡単に人を裏切る。
会わなくなれば、記憶から消えてしまう。
なにより、人を信じる力を失っていた。
それでも何処かに自己承認欲なるものが潜んでいて、誰かに必要とされること、愛されることは、絶望の渦中にいながらも完全に諦めきることはできずにいた。
特に音楽大学を志望していたわけではなかったが、クラシック音楽やジャズを聴くのが少ない楽しみの一つであったこともあり中学生の頃から音楽大学の文化祭に足を運んでいた。
運命的な出会いをした高校2年の秋。
小さめの教室で行われていた室内楽のコンサート。
そこで男子学生が弾いていたコントラバスの演奏に鳥肌が立つほど魅せられた。
教室が小さかったこともあり、最前列で終始彼に釘付けになっていた私はさぞ奇異なオーラを発していたことであろう。
演奏が終わり、居ても立っても居られなかった私はコントラバスを持って立ち去る彼の後を追いかけ声をかけた。
感動しました!なんて安い言葉しかとっさには出てこなかったが、それでも内向的な性格の私が追いかけてまで初対面の人に話しかけに行ったことは10年以上経った今でも驚きだ。
こちらもまたシャイな彼は「聴きにきてくれてありがとうね」とはにかみながら答えてくれた。
どうしてもこれで会話を終わらせたくなかった。
先述の通り、私は音大に進学する予定は(お金も)なかったが、クラシック音楽好きな父が私にフルートやピアノを習うよう教室に通わせていたため、それを口実に音大への進学を志望しているのでお話を聞きたい!と会話を続ける事を試みた。
思惑通り、食いついてくれた。
大体2〜3分程度話し、「もう戻らないと」という彼は私の携帯電話にメールアドレスを打ち込んでくれた。
今度お茶でもしながらゆっくり話そう、と。
その日以来毎日メールのやり取りをするようになった。
話はどんどん弾み、ご飯を食べに行こうとまた会う約束をし、日時を決めた。
自分に興味を示してくれた人がいることに対する喜びを感じる一方で、母によって初めてできた彼氏と引き離された苦い思い出を思い出す。
いけないと思いつつも自分を止められなかった。
私も、誰かに必要とされてみたい。
再会の日の当日
両親に対する恐怖に苛まれながらも、その足は約束の場所へ向かっていた。
少し早めに着いたつもりだったが既に彼はそこにいて、笑顔で私を迎えてくれた。
他愛もない会話だったが、久しぶりに楽しくて仕方がなかった。
冗談を言って私を笑わせたり驚かせてみせようとする時の彼の悪戯な笑顔が可愛くてたまらない。
何度か食事に出かけたりするようになり、どんどん彼に対して心を開くようになっていった。
ある日、食事を終え、腹ごなしをしようと海辺を散歩している時、私は自分の生い立ちや家庭環境についてを話していた。
自虐的かつ自爆的な行為である。
加えて、今まで誰にも話したことのなかった辛すぎる思い出の数々。
そんなことを人様に面と向かって話して、お前に羞恥心のかけらもないのか!と思うところではあるが彼にもっと自分のことを知ってもらいたい一心で、半ば突発的に話し始めてしまった。
一通り話し終えると、近くの階段に座った彼。
その横に座る私。
無言。
やってしまった、引いてしまって何も言えないんだ。
漣の音だけが気不味く響く。
冬の始まりを知らせる冷たい潮風のせいで余計に血の気が引いた。
後悔の念と恥ずかしさでいっぱいになり俯いていると、突然彼の両腕が私の背中にまわった。
時間が止まった。
こんなドラマ的展開があるものなのかと、不覚にも初めて自分の人生に感心した瞬間であった。
暖かい。
「よく頑張ったね」
ああ、もうまさにこれだよ、私がずっと求めていたのは。
一瞬少しだけ顔を上げた彼は静かに涙を流していた。
こんなに近くで誰かの涙を見るのもその時が初めてだったのではないかと思う。
そしてその涙が自分のことを思って流れているものだと思うともう何も言葉が出ない。
「もう大丈夫だよ、大丈夫だから…」
そして再び強く抱きしめられた。
物心ついてから人に抱きしめられるのも初めてだった。
世の中、こんなに優しい人もいるんだな。
しかも、知り合って日も浅い人に対してこんなに一生懸命に向き合ってくれるなんて。
たった今起きていることが、あまりにも現実味を帯びていなくて戸惑いつつ、心は喜びとようやく実感することのできた安心感で満ち溢れていた。
母に外に放り出された幼き日々のことを思い出す。
寒空の下泣きじゃくっていた私がほしかったのは、こんな暖かい抱擁だったと気付いた瞬間だった。
初恋
高校生になり好きな人ができ、
そう日も経たないうちに晴れて恋人同士になった。
こういうことって、「パパには内緒ね!」ってお母さんとウキウキ話したりするものなのかな、なんて憧れを抱きつつ、元々両親との会話が少ない(というか話しかけてもまともに取り合ってもらえない)私は報告することもなかったが。
人を好きになる、恋心を抱くという初めて経験。
一緒にいるだけで楽しい、何でも話せる。
誰かを愛おしく思うってこんな気持ちなんだと16、7になって初めて知った。
辛い家庭のあれこれも、彼と一緒にいる時間は忘れられる。
少しずつでも心の穴を埋めていって、人を愛すこと、人に愛されることを学んでいきたいと心から強く思った。
記念日に向けて手作りのフォトアルバムやお菓子などプレゼントを用意するのも大きな楽しみだった。
いつも、満面の笑みで喜んでくれるから。
ウブな恋愛。
アルバイトはしていたものの自由に使えるお金もあまりなく、デートといえば学校帰りによるショッピングモールにでのウィンドウショッピングくらいで、映画を観たり少し電車に乗って海を見に行ったりするのがたまの贅沢だった。
しかしこのショッピングモールでのデートが悲劇を生んだ。
ある日いつものように彼と手を繋いでショッピングモール内を歩っていると、後方からわたしの名前を呼ぶ声がした。
振り向いてみるとそこには激昂した母の姿が。
「この、不良娘が!」
そう叫んだ数秒後にはビンタされた頰がジンジンと痛んだ。
私は母に腕を掴まれ、彼を残したまま家へ連れて帰られた。
なんてことをするのだ、と怒りで全身が震えるもどうしようもない。
彼は呆気にとられ途方に暮れていた。
そこで話し合いをするにも店に迷惑をかけてしまうだろうと思ったらもう連れられるまま帰るしかないのだ。
家に着くと母の怒りはヒートアップ。
「浮かれてんじゃねえ」「男と出かけるなんて許されねんだよ」と延々と怒鳴られていると父帰宅。
しばらく立って黙って聴いていたと思ったら急に頬を打たれた。
次に見つけた時には殺してやると言わんばかりに責め立てられ、怯えてしまい何も言えなかった。
次の日に学校へ行くと担任の先生に呼び出された。
困ったような呆れたような顔でため息をつきこう言い放った。
「あいつと付き合うのはやめとけ」
なぜ学校の先生にそんなことを言われなければならないのかよくわからなかった。
先生すら何か反対する理由があるのだろうか。
なにもやましいこともないのに。
「お前の父ちゃんから電話が来た、すっげー剣幕だったぞ」
そう言われた瞬間目の前が真っ暗になった。
なぜこんなにたくさんの人を巻き込むのか。
どうして、こんな仕打ちを受けなければならないのか。
悲しくて悲しくて堪らなかった。
担任の先生から彼にも、もう私とは関わらないようにといったらしく、その日以来彼には避けられるようになり話しかけられることもなくなった。
事情を聞いた彼の友人たちも私を奇異な奴だという目で見るようになってしまったのである。
恥ずかしさと、悲しさと、悔しさが乱れ入り混じる。
もう消えてしまいたかった。
こうして私の初恋が終わり、希望の光も見失った。
不倫
中学生になった頃から両親の仲は険悪になっていき、気がついた頃には両親ともに不倫をしていた。
お互いに勘付いてはいるようであったが体裁を保っていたいのか暗黙の了解状態。
家で寝ている父が握りしめている携帯電話の画面には彼女とのツーショットや卑猥な写真、メールのやり取りが映し出されていることがよくあった。
見ないようにすればいいだけなのに目に入ってしまい、それを確かめてしまいたくなる。
ウソだと、見間違いであると思いたかったから。
『誕生日はどこへ行きたい?』『プレゼントは何がいい?』
悔しかった。
実の娘である私ですらプレゼントなんて貰ったことないのに、誕生日なんて気にされたこと一度たりともないのに、
それなのにどこかの知らないおばさんにはそんなに尽くすのか。
物心ついた頃から何度か父に誕生日プレゼントや父の日のお祝いをあげたこともあったが、「こんなゴミいらねえよ」と捨てられてしまうのでやめた。
母もこの頃からしきりににこにこしながら携帯電話をいじるようになった。
あの時代の携帯電話なんてPHSの進化版ってところでそんな長時間使ってて楽しいものではないので誰かとメールで連絡を取り合っているんだなということは容易にわかった。(のちに大胆に電話も始める)
おしゃれをして「パートに行く」といって家を出た母が見知らぬ男の運転する車に乗って行くのを見るのは心がえぐられるようだった。
どんなにひどいことをされても言われても、母は母だと、どこかのタイミングで仲良くなれると信じていたのに
希望も可能性も全て、一気に崩壊した。
母は何度か男を変えていて(もしくは複数人と付き合っていた)、出会いを求めて某SNSに登録をしていたが、たまたま目をやった時に母が開いていたSNSの画面に映し出されたものを見て驚愕した。
私の顔写真を載せていたのだ。
しかも、プロフィール画像として。
恐らくそこで知り合った人とは会うつもりはなかったのだろう。
何にせよ、"女子高校生"を母が演じていたのである。
男をおびき寄せるためにインターネットに無許可で写真を載せられてしまった。
憤りを抑えきれず、後にも先にも無い剣幕で「どうしてこんなことをするの」と、もう全て削除してそのSNSごとやめてほしいことを必死で訴えた。
「もっと載せたいから写真を撮らせて」「あたし行けないからあんた代わりに会いにいってきてよ」
全く聞いてもらえなかった。
こんなに虚しいことがあるのか。
生まれてきてしまった自分を恨む他なかった。
小学生の頃
とても大人しく口数も少ない上社交的な性格でもなかったため、いつも決まった数人の友人と絵を描くことを遊びとしていたインドアな小学生だった。
通信簿の先生からのコメントにも「お友達が少ない」と書かれてしまうくらいに。
それでもどうしても、ひとに心を開くことが容易ではない子どもだった私は少数でも気の置けない友人たちのことは誰よりも信頼し、誰よりも大切にしていた。
そんな彼女たちにも家の事情を話すことは今の今までできていないが。
小学校低学年の頃に海外へ単身赴任した父が、5年生の秋に帰ってきた。
ああ、また自分に辛く当たる人が増えるんだな、と父の帰国を恐れていたが、帰って来た父はしばらくの間恐ろしいほどに上機嫌。
母は1度だけ父の赴任先まで行ったことがあったが、やはりしばらくぶりの父との再会を喜んでいた。
機嫌がいいからといって私のことをかまってくれるわけではなかったものの、以前より少し家の雰囲気が和やかになったのは小学生ながら嬉しかった。
しかしこの頃からひどく悩まされ始めたことがある。
両親の夜の営み。
当時の住まいは部屋数も多くなく、私も両親も同じ部屋で寝ていたのですが、何の仕切りもなく、行為に明け暮れる両親のすぐ隣の布団で寝たフリをするのは思春期を目前とした女としては受け入れ難く辛い時間でした。
1分が1時間に感じるほど、長い長い夜。
耐え切れずに寝ぼけたフリをして
「お母さん…」
と呼んでみるも
「え、やだ〜、この子起きてるのかしら?うふふ♪」と母
それに対して「いいよ、続けよ」とまた母に覆い被さる父
どうしてこの状況で能天気に笑えるのか、一切の気遣いがないのか、もう気が狂いそうだった。本当に。
生々しい音や声、息のリズムが気持ち悪くて涙がとめどなく溢れては布団で必死に拭う夜を何度も何度も過ごした。
うーん。
今も記事を書いていて本当に胸糞が悪い。
長いことなるべく思い出さないようにしようと、どこかにしまっておこうとしていただけあっていざ回顧してみると堪らなく辛い。
そしてある日とうとう我慢の限界に達し
「やめて!」と泣きながら訴えると
「うるせえ!早く寝ろ!」と父に怒鳴られ結局口論になり、覚悟はしていたもののやはり外に出される。
深夜、1人当てもなく近所を徘徊。
児童公園の時計は2時をまわった頃だった。
いっそこのまま誰かに連れ去られて仕舞えばいいのに、殺されちゃえばいいのにと、声を潜めてまた泣いた。
そのまま気づかぬうちに公園のベンチで眠りにつき気がつけば朝。
ダメ元だが学校もあるので家に戻ると鍵が開いていた。
何事もなかったかのようにトーストを1枚食べ学校へ向かった。
中学に入学する頃まで悩みに悩み抜いたが解決策もなく、誰に相談できるわけでもなく、耐え続ける他なかった。
幼少期
幼少期のできごとに関しては断片的ながらも強烈に覚えてることがいくつかある。
理由は覚えていないがとにかくよく泣く子どもだったため、泣き出す度母に外に締め出された。
雨の日も、雪の日も。
冬でも上着も着させてもらえず靴も履かせてもらえず、四肢末端が粉々になってしまうのではないかと思うほどに痛かった。
夜になれば引きずられながら家に入れてもらえるのだが。
殴る蹴るは日常茶飯事。
両親ともに機嫌が悪くなると当たり散らされるため毎日が恐怖との戦いだった。
(のちにクレヨンしんちゃんに出てくるネネちゃんの"憂さ晴らしうさぎ"を見て親近感が湧いた。)
父の怒鳴り声は社会人になって一人暮らしをしている今でも夢に出てきて冷や汗をかきながら目を覚ますこともしばしばある。
おねしょをしてしまった日には抵抗も虚しく全裸にされ、車で30分ほど走ったところにある山の中においてきぼりにされることもあった。
走っても、追いつけなかった。
あまり下手に動いたら田舎とはいえ誰かに見られてしまうかも。
そして何より、そのうち迎えに来てくれるであろう両親に見つけてもらえなくなってしまう。
草むらの影に隠れて待ち続けた。
ただひたすらに待つしかなかった。
ごめんなさい、ごめんなさい、と泣きながら。
おなかがすいてものどが渇いても仕方がない、私が悪い。
おねしょをしてしまったのだから。
泣いてもどうしようもないのに涙は止まらず。
生き地獄
虫が、怖かったな。