豆腐メンタルのミカタ

ヤワにゆるっと生き抜くTips

不倫

中学生になった頃から両親の仲は険悪になっていき、気がついた頃には両親ともに不倫をしていた。

 

お互いに勘付いてはいるようであったが体裁を保っていたいのか暗黙の了解状態。

 

家で寝ている父が握りしめている携帯電話の画面には彼女とのツーショットや卑猥な写真、メールのやり取りが映し出されていることがよくあった。

 

見ないようにすればいいだけなのに目に入ってしまい、それを確かめてしまいたくなる。
ウソだと、見間違いであると思いたかったから。

 

『誕生日はどこへ行きたい?』『プレゼントは何がいい?』

 

悔しかった。

 

実の娘である私ですらプレゼントなんて貰ったことないのに、誕生日なんて気にされたこと一度たりともないのに、
それなのにどこかの知らないおばさんにはそんなに尽くすのか。

 

物心ついた頃から何度か父に誕生日プレゼントや父の日のお祝いをあげたこともあったが、「こんなゴミいらねえよ」と捨てられてしまうのでやめた。

 

母もこの頃からしきりににこにこしながら携帯電話をいじるようになった。

 

あの時代の携帯電話なんてPHSの進化版ってところでそんな長時間使ってて楽しいものではないので誰かとメールで連絡を取り合っているんだなということは容易にわかった。(のちに大胆に電話も始める)

 

おしゃれをして「パートに行く」といって家を出た母が見知らぬ男の運転する車に乗って行くのを見るのは心がえぐられるようだった。

 

どんなにひどいことをされても言われても、母は母だと、どこかのタイミングで仲良くなれると信じていたのに
希望も可能性も全て、一気に崩壊した。

 

母は何度か男を変えていて(もしくは複数人と付き合っていた)、出会いを求めて某SNSに登録をしていたが、たまたま目をやった時に母が開いていたSNSの画面に映し出されたものを見て驚愕した。

 

私の顔写真を載せていたのだ。
しかも、プロフィール画像として。

 

恐らくそこで知り合った人とは会うつもりはなかったのだろう。
何にせよ、"女子高校生"を母が演じていたのである。

男をおびき寄せるためにインターネットに無許可で写真を載せられてしまった。

 

憤りを抑えきれず、後にも先にも無い剣幕で「どうしてこんなことをするの」と、もう全て削除してそのSNSごとやめてほしいことを必死で訴えた。

 

「もっと載せたいから写真を撮らせて」「あたし行けないからあんた代わりに会いにいってきてよ」

 

全く聞いてもらえなかった。


こんなに虚しいことがあるのか。


生まれてきてしまった自分を恨む他なかった。

小学生の頃

とても大人しく口数も少ない上社交的な性格でもなかったため、いつも決まった数人の友人と絵を描くことを遊びとしていたインドアな小学生だった。
通信簿の先生からのコメントにも「お友達が少ない」と書かれてしまうくらいに。

 

それでもどうしても、ひとに心を開くことが容易ではない子どもだった私は少数でも気の置けない友人たちのことは誰よりも信頼し、誰よりも大切にしていた。

 

そんな彼女たちにも家の事情を話すことは今の今までできていないが。

 

小学校低学年の頃に海外へ単身赴任した父が、5年生の秋に帰ってきた。
ああ、また自分に辛く当たる人が増えるんだな、と父の帰国を恐れていたが、帰って来た父はしばらくの間恐ろしいほどに上機嫌。
母は1度だけ父の赴任先まで行ったことがあったが、やはりしばらくぶりの父との再会を喜んでいた。


機嫌がいいからといって私のことをかまってくれるわけではなかったものの、以前より少し家の雰囲気が和やかになったのは小学生ながら嬉しかった。

 

しかしこの頃からひどく悩まされ始めたことがある。

 

両親の夜の営み。


当時の住まいは部屋数も多くなく、私も両親も同じ部屋で寝ていたのですが、何の仕切りもなく、行為に明け暮れる両親のすぐ隣の布団で寝たフリをするのは思春期を目前とした女としては受け入れ難く辛い時間でした。


1分が1時間に感じるほど、長い長い夜。

耐え切れずに寝ぼけたフリをして
「お母さん…」
と呼んでみるも
「え、やだ〜、この子起きてるのかしら?うふふ♪」と母
それに対して「いいよ、続けよ」とまた母に覆い被さる父
どうしてこの状況で能天気に笑えるのか、一切の気遣いがないのか、もう気が狂いそうだった。本当に。

 

生々しい音や声、息のリズムが気持ち悪くて涙がとめどなく溢れては布団で必死に拭う夜を何度も何度も過ごした。

 

うーん。

今も記事を書いていて本当に胸糞が悪い。
長いことなるべく思い出さないようにしようと、どこかにしまっておこうとしていただけあっていざ回顧してみると堪らなく辛い。

 

そしてある日とうとう我慢の限界に達し
「やめて!」と泣きながら訴えると
「うるせえ!早く寝ろ!」と父に怒鳴られ結局口論になり、覚悟はしていたもののやはり外に出される。

 

深夜、1人当てもなく近所を徘徊。
児童公園の時計は2時をまわった頃だった。
いっそこのまま誰かに連れ去られて仕舞えばいいのに、殺されちゃえばいいのにと、声を潜めてまた泣いた。

 

そのまま気づかぬうちに公園のベンチで眠りにつき気がつけば朝。

ダメ元だが学校もあるので家に戻ると鍵が開いていた。


何事もなかったかのようにトーストを1枚食べ学校へ向かった。

 

中学に入学する頃まで悩みに悩み抜いたが解決策もなく、誰に相談できるわけでもなく、耐え続ける他なかった。

幼少期

幼少期のできごとに関しては断片的ながらも強烈に覚えてることがいくつかある。

 

理由は覚えていないがとにかくよく泣く子どもだったため、泣き出す度母に外に締め出された。
雨の日も、雪の日も。


冬でも上着も着させてもらえず靴も履かせてもらえず、四肢末端が粉々になってしまうのではないかと思うほどに痛かった。
夜になれば引きずられながら家に入れてもらえるのだが。

 

殴る蹴るは日常茶飯事。
両親ともに機嫌が悪くなると当たり散らされるため毎日が恐怖との戦いだった。
(のちにクレヨンしんちゃんに出てくるネネちゃんの"憂さ晴らしうさぎ"を見て親近感が湧いた。)

 

父の怒鳴り声は社会人になって一人暮らしをしている今でも夢に出てきて冷や汗をかきながら目を覚ますこともしばしばある。

 

おねしょをしてしまった日には抵抗も虚しく全裸にされ、車で30分ほど走ったところにある山の中においてきぼりにされることもあった。

走っても、追いつけなかった。


あまり下手に動いたら田舎とはいえ誰かに見られてしまうかも。
そして何より、そのうち迎えに来てくれるであろう両親に見つけてもらえなくなってしまう。

 

草むらの影に隠れて待ち続けた。
ただひたすらに待つしかなかった。
ごめんなさい、ごめんなさい、と泣きながら。

 

おなかがすいてものどが渇いても仕方がない、私が悪い。

おねしょをしてしまったのだから。

 

泣いてもどうしようもないのに涙は止まらず。

 

生き地獄

 

虫が、怖かったな。

仮面家族

ハタから見ればごく普通のそこそこ幸せな家族に見えたかと思う。

 

週末になれば家族で出かけることも度々あったので近所のおばちゃんなんかにも、今日はどこにお出かけ?仲良くていいわね〜なんて言われたりもして。

 

しかし私の記憶の中には家族と過ごした楽しい思い出というものが正直見当たらない。

 

(産んだ子どもを育て上げるのは親の最低限の義務ではないのだろうかと思うけれども)衣食住に加えて私が家を出るまで学費等も払って育ててくれたことは感謝しているが、

一緒に生活を共にしていたあの18年間は、ただ、ひたすらに仮面家族との悲痛な時間だった。

Live or Die

 

「死にたい」


そんな言葉が初めてポロっと口から溢れてしまった時の焦燥感

 

鬱やら発達障害やら不安障害やらと診断されてから薬物療法を中心に治療をしていましたが、しばらくして薬とは決別して休養と精神療法、SST等で立ち向かうと決意

 

初めてのブログなので拙くはなりますが

生い立ち、自分の異変に気付くまで、そして自分自身と闘う今とこれからについて記しながら心の整理をしていきます。

丁度、死ぬまでに自分に起きた出来事をまとめて形にしたいと思っていたので。

 

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今似た境遇で苦しんでいるひとがいるなら、
私のような環境で育ったひとがいるなら、
ここでは辛さを吐き出して、分かち合って、少しでも心豊かに生きていく道を見つけていけたらと思います。

 

生き延びていくために…